アメリカ断片(観光・グルメ・政治・ウエルベック)

どこの国でもいいが、入国するとき「観光目的です」と
口にするたびにウソついてる気分になる。
観光というのがよくわからない。
旅行社のパッケージツアーに参加したことがないから
かもしれない。参加すればそれなりに楽しいように思う。
訪れたい場所がたまたま観光名所だったということは
もちろんあるが、一つ一つの観光ポイントへ行かねば、
という発想はない。そこで生活する、そこで観光以外の
目的で滞在する、ということに好奇心が動く。
だから、現地のスーパーマーケットに行くのは好き。
帰国後、アメリカの景色を思い浮かべるとき、まず最初に
浮かぶのはスーパーマーケットだったりする。笑。
SAFEWAYという大型スーパーの会員カード手元にある。
会員価格だと格安になるので重宝する。
旅行者でもカンタンにカード作れる。



食通・グルメには殆ど興味ないが、それがオーガニックの
場合は別。いくら美味しい料理であっても、オーガニック
ではない場合、興味が薄れる。美しい料理のデザイン、
配合には興味を持つが、非・オーガニックの場合は、眺める
だけで満足する。昔はそうじゃなかった。美しい料理に憧れ、
料理人になりたいと思ったこともある。でも、たとえば、
パスタ料理にふんだんに入れるオイル、バター、どうして
そこまで入れないといけないかという疑問、驚きは若い頃
からあった。成人病がまったく怖くないなら、なんにも気に
しないかもしれない。
だが、現実はそうではないし、美味しければ、なに食べても
いいとは思わなくなった。
パンも同じ。美しいパン屋の非・オーガニックの美しいパン
は、眺めているだけでいい。
一応、パン屋だから、研究のために試食はするけどね。
人と外食するときにオーガニックの店しか行かないという
わけではないし、その辺りは適当。というか、日本ではその手
の店は少ないわけで。オーガニックの看板かけたレストランや
カフェに入れば、何種かの、あるいは、一部の食材だけオーガ
ニックという、お決まりの商法・・・・うんざりする。
サンフランシスコでは、いろんな形態のオーガニック店がある。
もちろん日本同様、100%オーガニックではない店も多いのだが、
小さな、別段気取ってもいない八百屋であっても、
半分はオーガニック、半分はそれ以外と綺麗に分類されてたり、
オーガニックの大きなファーマーズ・マーケット(農家直売)が
毎週2回あったり、大きなスーパーだと、至る所にオーガニック
の食材があり、偶然出会う人たちのなかにはかならずオーガニック
に精通した考えを持つ人がいたり、とにかくいろんな場面で、
オーガニックを身近に感じられる環境であることは確かで、
その辺の意識、環境が日本の常識になってくれれば、
と淡い期待もするが、あと何年、何十年経てば、そうなるのか、
よくわからないですね。



アメリカでは、宗教と政治の話は相手を見て、
よく考えてから、話題にすべきかどうか判断したほうがいい
ようです。うかつに話題にして、面倒に発展する場合もある。
要するに、無関心ではないということだね。
政治の質問を受けて、なにも答えられない多くの日本人。
政治はそんなに難しいことなのか。
たとえば、身近にトラブルがあるとする。
それを解決していくためにいろいろ考えることが政治だと
思う。身近な問題を解いていくセンス。
国家の政治には多大な興味を持つ人が、身近な騒動に無関心
だとすれば、その人は政治のセンスがないんだと思える。
だから、政治家、政治評論家、政治に詳しい人諸々、という
だけでは信用しない。それはただの表面に過ぎないから。
でもまあ、家族を蔑ろにして国政には優れているという人も
いるのだろう。とは言え、
政治家の決まり文句で、国民の財産と生命を守るために・・・
というのを耳にすると、その言語能力を疑うことにしている。
それは右傾化していくときのお得意のフレーズであって、
「・・・」には、犠牲者は付きものです、が隠されてある。
国民の財産と生命を、と宣言する限りは、完全無血以外にない。
それが正しい言語能力というものです。


若い頃から政治に関心を持てる人とそうでない人。
僕自身は、後者だった。政治に興味をもつきっかけは投資。
投資というのは世界を含めた経済の検証が必要。経済は政治と
密接に繋がっているから、当然、国内に限らず世界の政治の
動きを知らなければならない。必要な情報だったから興味を
もつようになれたということだが、若い頃の関心事というのは、
一般的に恋愛。自分の将来へと繋がる恋愛、結婚に関係する
事柄には興味をもつ。娯楽一般、美味しい店はどこか、仕事、
ファッション、旅行、それらはみな恋愛に繋がっていく。
政治は? 恋人と政治を語り合うのが大好き、という人以外は、
政治なんて、自分の恋愛の身辺にはまったく関係ない。
で、齢をとって、結婚もして、生活が安定傾向に入ると、
政治に関心をもちはじめる。そういう人もいる。
結局、政治が自分の興味対象として、必要かどうか。
だから、かならずしも、若い人たちが、政治に無関心で
あっても、それでいいんじゃないと思えたりもする。
だけど、そうじゃない国々も多いということを知るべき。
同じように若くて、恋愛や仕事が最大限の興味で、不安定で、
なのに、フランスでは大統領を選出するのに85%の有権者
投票する。若い層は僅差で敗北した左派の女性大統領誕生に
期待した。そういう意識はどこから来るのか。
最近、ミシェル・ウエルベックというフランスの作家の小説
素粒子」や「ある島の可能性」を読んだ。これらは難解と
言われる書物で、スキャンダラスな内容でもあるから、嫌いな
人は大嫌い、好きな人は絶賛、という両極端な評なのだが、
この難解書物、フランスではベストセラーになる。
日本で、ウエルベックに匹敵する難解さの流行小説家、一人でも
いるだろうかと思うと悲しくもなるが、果たしてウエルベック
は難解かと考えると、そうは思えない。でも、俗に難解と
言われ、それがベストセラーになる土壌は誰が形成するのか。
日本って、ほんとにガキっぽいと感じること多々ある。
大好きな映画のゴダールさんは、この世に大人はいない、
というシニカルな表現もするが、大人って、未熟じゃないと
いうことで、自立しているということで、どういう精神、行動
の人が、大人なのか、と考えると、未熟、非・自立は不自由と
いう意味以外にないということを早く知るべきと思ったりする。
で、自由を得ても、サルトルさんいわく、自由の刑に処せられて
いる、と。自由の刑・・・カッコいい表現だし、浮遊した夢だの
自由だのを粉砕する概念でもあるのだけど、物事は常に多面的
だから、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う(ゴダール
の得意技)、常に多面のあっちこっちを移動しながら、不自由、
自由、大人、未熟いろいろ揺れながら、少なくとも、政治に
関してマイクを向けられたら、自分の考えを上手下手はともか
く主張できるほうが楽しいのではと思う。
そのためには訓練。アメリカの学校教育では、みんなの前で
自分のネタをスピーチする時間というのがあるらしく、それは
幼稚園の頃からあって、初めから自己主張のある子供は別として、
そうではない子供もいるわけで、だから、アメリカ人みな自己主張
強いのはそういうお国柄だからというのではなくて、幼少時からの
訓練によって培われたという側面があるということ。
楽器を習得したり、英語を習得したりというのと同じように、
自己表現の訓練が日本の学校にも必要なのではないかと。