アメリカの印象

アメリカの印象をストレートに書くと、豊かな国、感情が。表現が。
アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの書物のなかに、
「印象に残らないことは存在しないことと同じ」というような考えが
あって、なにかを表現するとき、常々気になる。
これはなにか奇をてらって目立つといったことではなくて、
自分の考え・思いを見つめて素直に動く、機能的で十分な効果がある、
それによって新しい仲間ができたり場面が大きく展開したり素敵な瞬間を
得られたりというようなことと関わっていて。
8歳の我が娘はサンフランシスコ(以降省略してSF)で、バレエの
レッスンに通ったのですが、同じ年頃の女の子たちのクラスに、
中年の毛だらけの白人男性が1人、子供たちと同じようにレッスンを
受けていて、そのバレエ団には大人のクラスもあるのですが、彼は自分
が上達する最善のレヴェルを選択しているのです。
またSFのいくつかの小学校を見学したのですが、時間割というものが
なかったり、きちんと座席に座るのではなく先生のそばに集まる者、
そうでない者、個々バラバラに好きなことをしていたり、
東京の小学校で一年間英語を教えた経験のある黒人の男性教師がいて、
「日本の小学校とは全然違いますね」とこちらが言うと、
「そうですね、でもスタイルが違うだけで、子供たちは同じです」と
いうのが印象的でした。その教師は耳と鼻にいくつもピアスしてて、
日本でも同じようにピアスしてたと。存在感あって日本語上手だった。
規則的に動くことを要求する日本の学校との大きな違いを、
ある生徒の母親が、「こちらの子供は、手を挙げて先生が誰かを指名して、
指名された者が問題に答える、というような怠惰な無駄がはじめから
なくて、手を挙げるよりも先に席を立って前に出ていく」というような
ことを言い、それはとても大切な自己表現と思いました。
結局、瞬間瞬間で必要なときに必要な動きができるかどうかだと僕は
思っていて、たとえば、建物に入るべくドアの前に障害をもつ長女の
車椅子が視界に入るやドアを開けてくれるのは、アメリカ人に限らず
日本でも優しい人はたくさんいるのですが、アメリカ人の多くはドア
を開けて、ひと言こちらがありがとうと言うと、笑顔なり、どういた
しましてと返すだけでなく、プラス二言三言あるいは動作の表現が
あって、対話が成立する、その瞬間、楽しくなる、些細なことから場が
展開する、そういう可能性がたくさんあって、日常の時間に広がりが
できる、その累積がアメリカの時間の流れにはあって、それはとても
豊かな気持ちのやりとりだったり、余裕のあるものに感じたりする。
時間にすればほんのひとときの瞬間芸のようなもの。
なにか手助けしたいという気持ちはあるけど、瞬間の判断で動けない
人と、さっと動けて綺麗に表現できる人を比べて、優しさに優劣はない
と考える人もいると思うけれど、僕はそれははっきり優劣のあることと
思う。だって、困っているのは相手だから。表現できなくても気持ちが
あれば、優劣はないと考えるのは、自分中心の甘えだと思うから。
ある白人がドアのそばに背を向けて立っていて、その背後を僕らが通過
したとき、自分がサポートできなかった、気づかなかった一瞬の出来事に
対して、「すいません。気づかなくて」とひと言僕らに言いました。
単純に、素晴らしい自己表現だと思う。
大阪にいると見知らぬおばちゃんがいきなり友だちみたいに話しかけて
くること多いけど、アメリカでは、老若男女が話しかけてくる。
たぶんこれは子供を連れていたからですね。とくに障害児には優しい。
昔、日本人の友人が単身1年間渡米してアメリカ嫌いになって帰国した。
ロスアンゼルスに3年間住んでいた友人は「とにかく弱者には優しい。
でも住んでいると、あの自己主張がね・・・」と。
先日イスラエルパレスチナの特集番組を観てて、中東和平に関する
アメリカの態度のどこに弱者に優しい側面があるかと腹立たしくもなる
が、1ヶ月間のSF滞在で多くの人に出会い、学校等の生活基盤は開拓
できて、今後、反復して、できるだけ長く滞在する機会を作りたいと
思った。